昭和52年07月05日 朝の御理解



 御理解 第40節
 「思いものを負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め努めするが良い。」

 ほんとに教祖がこう教えられる、家業を勤め勤めしかも楽な信心。そういう信心をさせて頂きたい。楽と言う事楽しいと言う事でもある。信心は一つ楽しい愈々有り難いものにしていかなきゃならない。いうなら楽しく信心をする。信心とは何かきついもの。とても私だん信心なできんと、信心のない方達が言うそれは毎朝、毎朝こうやって朝の御祈念にでも参ったり、さぁ御用と言うたら何をおいてもその御用をさせて貰う。そういうのを見たり聞いたりするからとても私達はできん。
 金もなか暇もなかと言った様な事を申しますから、いかにもそういう人達が楽なようだけれども決して楽じゃない。なら信心を例えばさせて頂いておるなら、なら朝参りでもさせてもらう。御用にでも打ち込ませて頂くという人達はそれは色々ありましょう。それは、おかげを頂かねばならんからもうまぁ、それこそしんこしんこでその信心を続けとる人もあるかも知りませんけれども。
 信心の話をいわゆるお道の信心の話を聞かせてもろうていうなら教えに基づいての信心というのはそれこそ家業を勤め勤めしかも楽に楽しゅうできるものでなからなければ本当のもんじゃない。話を聞き話にのっとった生活をさせて貰うと確かに楽しゅうなってくる。しかも愉快になってくる。愈々有り難いというものは一年一年育ってくる。そういういうなら間違いのない、そういう一つの信心の道筋と言った様なものが、身に付いて来る様な信心を一つ極めていきたい。
 どうでしょうかお互いの信心は、そういう一年一年有り難うなっていくしかも楽しゅう楽に有り難く出来ておるだろうか。いくらお供えさせて頂いても、お供えをしたぐらいなことじゃない、おかげを頂くから楽しい。それこそ一歩でもこちらに足を向けて来りゃ無駄にさせんと仰るようにね、朝参りでもさしてもらやさしてもらわなければおられないおかげが頂けれる。同時に話を聞かせてもらうと愈々心は開けてくる。しかも限りなく美しゅうならせて頂く事に精進するから第一自分の思う事が無くなる。
 いわゆる我情が段々無くなってくる。ほんとに皆のまぁお取次ぎをさせて頂いておると昨日、一昨日から鹿児島の方が娘さんの所へみえて、で、それもどうでも心の中に自分で憚らない問題がある。それでまぁ合楽にお引き寄せ頂いて、この自分が一つすっきるするまでもうこちらにおりたいと言う様な気持ちでみえておった。恐らく今日は宮崎の娘さん所へ行っておられるだろうとこう思いますけれども。
 話を聞くと成る程まぁ、難儀な問題であるし成る程親の言う通りに子供が動いてくれりゃさぞよかろうけれども、ね。親の思う通りにしたいと思う所に難儀があるのです。だからその思いを捨てなさいと私。右が良いの左が良いの、しかも絶対間違いのないこういうなら間違いのない神様に委ねるのだから任せるのだから。だから任せられたらもう今日でもあなた帰んなさってよか。あぁ息子がこうあってもらわにゃならん。
 こうでなかなきゃならんこれが本当だと本当でもない事を本当だと思い込んでいっておる所に難しい。もうその事がそれこそ重荷になって臣荷になってしようがない。自分のおかげを頂いておる教会ではどうしてもらちがあかん。それでわざわざ鹿児島から久留米の娘さん所までやってくる。ほんとにあのこの我情を取ると言う事はね、もうこんな楽な事ないですね。それもなら神様が分かるというか信じられれば、信じられる程自分の思いを捨てなければおかげになりません。
 それはそれでも色んな思いが湧いてきますわいね。またおかげいうなら痛いなら擦って貰い、痒いならかいて貰いたい。だからその事はお取次ぎを頂いて任せて帰るのです。だから楽なんですね。私は楽な信心とはそういう信心だと思う。それこそ家業を勤め勤めできるのです。昔というてもそうですね。まぁ後にも先にもこういう名優は出るまいと言われるような市川団十郎という九代目の団十郎、まぁ名人であったそうです。私共は知りません。今の海老蔵のお父さんのお父さんのお父さんになる人でしょう。
 それは中々やはり名人だったそうですけれども、矢張り名人気質と申しますか、非常に何か知らん根性が一本通っとる。この人が長年の役者生活の中でです、もういわば名舞台だと言われる舞台の中にいくつか、絶対そういう役はせんというその人だったらしい。例えばあの、熊谷陣屋の熊谷何かてもうほんとに名優でなからなけりゃやれないのですけども。熊谷という役は絶対せん。
 石切り梶原という名舞台がある。その梶原も絶対せん。なぜせんかというとね、あれはもう侍の風上にも置けない役者に人間だと。いうならばもう平気で平家から源氏に移ったり、源氏から平家に移ったり。そういうそのまぁいうならば、二心もっておるような役はもう絶対せんと言うて一代やらなかったそうです。しかしなら今日の御理解から頂きますとですね、折角それだけの名演技をそのもっておった人がそういう名優でなからにゃできんと言った様なその役をやらなかった。
 役者というならどういうそれこそ役でもこなすが名優す。二心もっておるとか謀反心をもっておると言う様な役は絶対に自分はせん。まぁ、そう言う様な事がまぁ、有名にもなった一つの理由でもありましょうけれどもね。これは私はいこじ(がんこ)な考え方だと思うんですね。役者であるならそれが乞食の役であろうが悪人の役であろうがね、もうもう一通りはどんな役でもやれれる粉せれる。いやこなせれれるのだけれども、精神が違いだと言うてそれやらなかったと言うんです。
 金光様の信心の中にもそう言う様な感じの先生方が昔は非常に多かったようですね。もう人間の思い込みというものはもうどうにもしようがない。信心とは結局本当から本当を追求して行く事なんだ。いうなら真の追求なんだ。だから真の追求するから本当のおかげが伴うてくるのだ。これが本当だと思っておってもより本当のことがここにあったならば、そのより本当な事へさっと変わって行けれるいうならば、自由自在な心が欲しいです。だから信心の場合は必ずそれに実証がある。
 より本当な事合楽でも、なら合楽の信心の歩みと言った様なものを振り返ってみると様々な時代がありました。けれどもそれが例えば、私がねなら二十年前の思い方を今ももっておるとするなら私の信心の値打ちはないと思う。より本当な事だと聞いたり、より本当な事だなと思うたら、それをもうそれこそあっという間に転進していく。そして成る程本当な事であったなとおかげがここに伴うてくる。
 合楽の歴史をと思うと必ずそうなってるです。よりこの事が本当だと分かった時に本当な方へいうわば変わっていく。その辺の所がね、私はそのみごとに変えていけれる心の状態をいつもつくる。だからいつも求めておる求道というがね、より本当な事をより本当なことをと求め続けなければならん。全然それが本当な事の様に仮にみえても金光様のご信心はね、それにおかげが伴わなかったら本当なことじゃないのだ。
 いかに真の信心真の信心と言うが、そのほんとに自分が真の信心をしてる。積りでおる積りだからおかげにならん。だからいつも求め続けさせてもらう、求道の心は止むに止まれんものでなからなければならんと同時にね、より本当な事を聞いたり分かったりしたならそれにさっと乗り換えて行けれる信心。それが源氏が平家になろうが源氏になろうがそんなことは問題じゃない。問題は自分自身が助かっていかなきゃならん。自分が助からなければ楽にはなれないのだ。
 助かると言う事は私は楽な事だとこう思それにはやはり自分の思いを捨てていかなければ、ああありたいこうありたい。けれども様々な願い事はあります。だからそこはお取次ぎを頂いてお取次ぎお願いをする。そして自分の心は楽になる。それこそね重いものを背負うておった様な感じがもうここに一切をおいていけれるから帰りは楽になる。その楽な心におかげが頂けれる。
 今日は楽な信心と、家業を勤め勤めするがよいと仰る。それは私は楽しいというふうに聞いて頂いた。信心はもう嬉しゅうして楽しゅうして勿論一年一年有り難うなって。そういう信心でないならお互いがもう一遍考え直させて頂いて、なら私がここで絶対という言葉を使いながら皆さんに聞いて頂くようにね。もう合楽理念に基づく生き方はもう絶対のものだと。金光様の信心をいわば完璧の域まで高めたものだと。勿論完璧と言うてもねこれは完璧というのじゃない。
 完璧の域に入ったというのである。だから合楽理念を本当にマスターする、でそれを行じられていくならばもう絶対生神へ向って進んでいけれる道なのだ。しかもおかげが伴うてくる道なんだ。お徳が頂けれる絶対の道なのだ。そこにいうならそうした、はぁ真の信心には真のおかげが伴うという実証を、自分が心の上にも周辺にも頂き現していきながらねおかげを頂く。
 東京行きをしよる。けれども果たしてこれで東京に着くだろうかと途中で不安になる。そしていよいよ分からせて頂いたらなんの鹿児島の方へ行きよった。そういう信心をしておる人達がどのぐらい多いか分からない。それははっきりした指針がないからだ。合楽ではそこんところを絶対の道。生神へ向っていけれる道。しかも必ずそれにはおかげが伴うてくる道。勿論お徳も頂けれる。
 教祖のこの教典はもうどの一箇条どの一言でもお徳が受けられるような、又はおかげが受けられる道を説き明かしてあるのです。ですから教祖様がね、嘘な事を教えられておられる筈はない。所が嘘じゃなかじゃろうと思うようにおかげがどっこい頂けんとするならばです、自分の信心をまずは見てみて、いうなら頑固に自分の心の中にももっておったものをもう一遍振り捨ててそして絶対と言われる。
 ならいうならここで私に騙されたと思うてね、それをいうならばかなぐり捨ててこれが本当だ、金光大神の道はこうだと言うて、いくら言うとってもそれになら私はおかげが伴う、いうならば楽にならないならばいつまで立ってもおかしいのです。ですからこれは私は合楽で断言して言っておる様に、この道に出ればもう絶対の道だ完璧だと。勿論だから完璧の域に入ったんだからこれはもう限りがない。もう恐らくは私共は一生かかったってこれを成就すると言う事は出来ないでしょうね。
 教祖金光大神様という方はそういうお方ではない。もうそれこそ千年万年経ってもこういう方がまたと出られるとは思われないような方のだからね。その方の信心をなら完璧に頂いてしまうと言う事は、私はとてもとても難しい。結局楽しみの世界に入っても矢張りそれを精進していく以外にはない。いうなら生神を目指していく以外にはない。けれども不安はない。この道を指し示してある。これは生神への道だとね。これは金光大神の間違いのない道だと。
 絶対だと教えらるのだからその道を歩ければいいのです。不安がない。なぜそんな事を言うと必ずそこには実証が起こってくるからである。合楽で言われておるなら合楽理念でもです、その内容にもっともっと素晴らしい進展を見て行く事でしょう。けれどもねこれで大丈夫だろうか、これでいけれるだろうかと。例えばそういう不安のある信心というものは決して楽な信心じゃない。結局楽な信心を目指さなければならない。楽しゅうなる信心を目指さなければならない。
 やっぱおかげが伴うてこんと嬉しゅうならんですよ。そうにゃあすこん信者さんな頑張らっしゃるばってんが、そうにゃあの先生は私はこの頃四国のある先生からある手紙を頂いだんです。もう学院を出て6,7年になられる。非常にここの修行生の先生と同期の方だった。だからその方を通して言ってきとる。まぁ七年間もうそれこそ御結界に奉仕し続けて、けれども人が助からん。だから金光様の先生は御結界に座ってさえおりゃよかということだけでもないごたるですね。
 それこそ血の出るような修行をなさっておられる。けれども果たしてこれでよいだろうかと時々不安が起って来るような様な事ではおかげにはならんのです。いうならば私はそういう意味でねもう絶対の道ね。いうならば完璧の域に入ったと言われるなら合楽の信心をですね、間違いなく一歩づつでもそれを行じさせて頂く。そこからね思いも楽になってくる。第一我情が取れてくると我欲が無くなってくる。成る程我が身は神徳の中にもう我欲を言う必要が無くなってくる。
 もう自分でああしたいな、こうしたいなと思うとったらもう頭が痛いして晩に眠られん。はぁ自分でああせんならん、こうもせんならんと思うとるだけでも、いうならきつい。ですからほんとに自分の思いを捨ててね、そして神様の下さろうとしておるそのおかげの頂けれる受け物というか信心を本気でさせて頂く。確かにね、理屈の上では我が身は神徳の中に誰でも生きておるだけれども。
 なら我が身は神徳の中に生かされておるなぁ、と実感して目をつぶれば涙が零れるような実感というものが伴わなかったらおかげにはならん。信心にはもうこのいこじ(がんこ)な心というものが一番つまらん。自分はそれはほんなこつだと確信しておっても、その確信しておることがね、楽しゅうして有り難うしてしかもおかげがこれで実証されておるならそれでよい。それを進めていくが良い。そして又そこに段々進んで行ったら又、次の本当なことに移っていったらよい。
 おかげが受けとったらそれでよい。いうならば過去私共の信心が十年前二十年前それを本当だと思い込んで行じて、段々信心を進めて行く内にまぁより本当がここにあったと言う事になるとそれに、さっと切り換えていくもうほんとにもう、身蓮気もなくそこん所をいわば転身してきたのが合楽のいうなら信心の進め、進みからだったと思うです。何十年間という間、いうならばお導きなんかと言う事です。
 これから先さも言うた事がなかった。合楽示現活動に参画させてもらおうと言った様な、いうならば合楽運動が起こり出したら、もう皆さんがその示現活動いうならば、お導きにもう一生懸命ならなければおられないようになってきた。もう丸きり嘘のような話なんです。先生は、合楽示現活動いわゆるお導きをさせてもらう、自分がおかげを頂いたことを実意丁寧それこそ愛の心をもって人に伝えていける。
 もうそれこそ合楽では様々な表行をする人があった。水行断食なんかはもう軽い方じゃった。それがならもう表行全廃と言う事になったもうあっという間に表行する者が無くなったでしょう。もうみごとです。だからこれはもう表行ばせんけんちったごひれいが落ちりゃせんじゃろうかと。不安も心配も何もない。そういう信心になった途端にいうならばご本部参拝ならご本部参拝が八十人のが百五十人になった。と言う様にそういう実証をいうならば現していきながらより本当を、より真実。
 より真の信心を追求していくという求道の心はね例えば、一つの思い込みと言った様なものはその時点、時点でその思い込みがおかげに繋がるならそれでよいのだ。けれどもその思い込みがおかげに繋がって来ない、楽しゅうもならない。嬉しゅうも有り難うもなれないならば、これは間違いとしてそれこそかなぐり捨てて、ほんとに有り難くなれる道があるなら、間違いがないこれは絶対だと言われるような道があるなら、それにいわば転身していかなければいけない。
 そして成る程と合点がいったらば愈々その信心を極めていかにゃ。成る程この道を行くなら間違いなく生神への道だ。生神への道だと言うた所で一生貧乏しとってから生神への道とは言われない。生神への道を愈々間違いなくおかげを頂くようになったら金にも不自由せんようになった。いうならば貧争病のない世界に出る事が出来た。ならこれだけでは日勝り月勝りいわば代勝りと言う事にはならないから。なら代勝りのおかげを頂いていく事のためにね、もうこれは徳の世界である。
 その徳の世界に入っていく信心ができ修行が出来る事になると愈々有り難いの楽しいのと言う限りなく頂けてきてね。しかもこれならば代勝りのおかげに頂けれるだろうといういうならば、真善美の世界が開けてくるのです。しんとは真。いうなら嘘のない世界。ぜんとは善いといういうならば悪いものがない、悪い心が無くなる。びというものは見苦しいものがなくなる。もう限りなく美しゅなっていけれる。
 そこになら合楽では「天地日月の心になる事肝要」だという言う様な事になってくるわけ。天の心を愈々深く分かり、天の心を心とする。地の心を地の心として愈々大事にしていく。しかもね、今でこうする事が本当だけれどももう簡単な事はほうからかしとる。これでは実意とは言えない。それこそ成そうと思うたら子供でも成せるような簡単な事を疎かにしておって実意、実意を言うとったんではほん事じゃないね。
 「成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成さぬは己が成さぬなりけり」。大変難しい事に何か取り組む時のこれは気持ちかと思うておった。そうじゃない成せば成ると言う事は、成そうと思えば子供でも成せる様な事なんだとね。お風呂入って石鹸をちょっと水を切ってこうおいて置くと言う事だけなんだよ。タオルを使うたらキチッとこうやってひぱっとく。それだけの事なんですよ。便所に行ったらちゃんとトイレトペーパをこうする事だけなんだ。上がってくる時下駄をこう揃えて来るだけなんだ。
 成そうと思えば子供でも成せるような事を疎かにしておってはどういうよい信心が出来ておってもそこからおかげが漏ってしまう。そういうなら天地日月の心と言った様な心を愈々、いうならば分からせて頂いて、これが天の心であろうか、地の心であろうかと自分でも合点が行く様な思われるようなね、心の状態を自分の心の中に開いて行くのですから、もう楽しゅうならない筈がない。天地と同質になろうと言うんですから。天地が水ならばこっちも水になろうと言うんですから。
 所がお互い水と油じゃから、いっちょん一緒になれん、神様との交流もないと言う事になるわけ。ほんとに天地と交流しようと思うたら、なら天地の心を心とし、それをとてもこれは天地の心を心とするてんなんてんそれはもう大変なことだろう。そんな事はとても私しどんじゃ出来んと言わずにです、合楽理念を紐解くと天地の心日月の心になる事がこんなにも見やすう、こんなにも簡単にできる道が説いてあるのです。
 ただおかげを頂きゃよかだけなら毎日参ってきてお取次ぎを頂いて、それで帰りゃそれでよいけれども、それではいつまで立ってもいうならば信心が楽しい楽なものにはならない。愈々信心が楽なもの。しかも家業を勤め勤めいうならば家業の行としての家業ですよね。一日中働かせて頂いてね、そしてほんとに今日も忙しゅうお使い回しを頂いて有り難うございましたとお礼の言えれるような家業なんです。だから楽しゅうなってくる。お金にも不自由しなくなる。
 健康にもなる家庭は円満になる。そして貧争病のない世界から、愈々日勝り月勝りのおかげを頂いて、そこから次に今度は代勝りのおかげに進んでいかなきゃならない。代勝りと言う事は矢張りこの世で愈々魂を清めるね。愈々いうなら天地日月の心が愈々自分の心の中に頂けて来る様になって来る。そこに天地との交流が始まる。いうなら天地のご信用が愈々熱いなってくる。そこにはいうなら徳の世界である所のそれそこ真善美に輝く様なおかげが約束される。
 本当ですよそれをなら私が言うて実際に現して皆さんに聞いて頂いておるけん。こげん間違いない話はないって。それを私はこれを本当だ思う。私はこうでなからにゃいけないというそういうそれこそ団十郎じゃないけれどもね。それではそれだけのなら名演技ももっておった団十郎がね熊谷というなら役をなったことがない。石切梶原の梶原をやったことがない。こういう素晴らしい場面。
 舞台をいわば自分の芸域というものを狭めた事になる。愈々私共がね、もう自由自在に自分の心がより本当な方へ本当方へと。その本当な方へなって行く事によって、本当なおかげこれに伴うて来る様な本当でからにゃいきませんね。それをいうならば絶対と言いながら示されていく、なら合楽理念に基づいて愈々家業も勤め勤め、しかも楽に楽しゅうなるような信心をそういう信心をひとつ身に付けていきたいと思うですね。
   どうぞ。